スベリヒユの黄色の花弁が眼の隅を掠めた。その一瞬に、痛みというものが薄らいだ。しかし、その後すぐ、遠のこうとする意識を、引き戻す痛みが襲った。両方の引き合いが、より痛みを強めた。意識を失えば、楽になることは感覚で理解できた。
無理に下唇を咬む。与えられた痛みを、自ら与えた痛みで和らげるためだった。
意識の底で、頭を飛び交う言葉を捉えた。
——すごいケガだ…。誰か…早く救急車を!
——ホ─ムレスらしいな…。襲われたらしい…。
——襲われた?
今の出来事が、時間を巻き戻して蘇った。
若者が、鉄パイプのようなものを持って襲ってきた。川辺の茂みに隠れていたのだろう、三人か、いや四人だった…。痛みの連鎖が体中を駆け巡った。
——社会のゴミめ…。
——死ね…。
自分自身は、社会の落後者であることは自覚していた。しかし、それを口で言われると、抵抗があった。しかし、そんな感傷を、激痛の波が容赦なくのみ込んだ。
意識が遠のいていく…。
——ああ…やっと楽になれる…。
舌先の血の混じった砂の感触が、最後の感覚になった。
鼻孔に何かが触れた。微かに……。そうだ…。金倉山から吹き下ろす風の匂いだ…。
錯覚か……。ここは、確か…大宮のはずだ…。
閉じた瞼に、白濁した闇が覆っていた。——白濁した闇!
しかし、それしか、この状態を形容する言葉が見当たらなかった。痛みは感じなかった。警告音というのか、医療ドラマでお馴染みのあの音が鳴り響いていた。
——プー…。プー…。プー…。
——たしか、血圧が急激に落ちていく時に発する音だ、と記憶していた。いや、違ったかな?そんなことは、どうでもよかった。とにかく、自分は、今、危機的状況にあることを悟った。遠のく意識を、意思の力で鷲づかみして連れ戻そうとした。微かな会話の声を拾った。
——このままだと、生き倒れですね‥。
誰だ…お前は!その声の持ち主に投げようとした言葉だった。しかし、それが口を吐くことはなかった。
どんな感情が、この言葉を発しさせようとしたのか、の分析は、今のこの状態では、意味がなかった。とにかく、発したかったのは、真実だった。——真実…。そうだ、これが、人生で一番、意味ある言葉なのだ。これを知るために、自分の人生はあった、と理解した。
——《真実》とは?それは、《生きている、ということそれ自体》なのだ。死ぬ間際に、それを知るなんて…。
自分を襲った若者に言ってやりたかった。
——どうだ、俺は《真実》にたどり着いたぞ。お前らなんかに解るものか!
いやいや…それよりも…。
——生き倒れ…!この俺が!
故郷のあの碧の山並みが連なる村を出て…。あの日以来、自分はどんな取り扱いをされてきたのか、思い起こそうとした。そして、故郷の山鳥の声を、掬い取ろうとした。徒労だった。
自分が、望んだ通りの、死に方を向かえたのに、急に、何かを失ったかのような、痛みもなく自分の右腕と、左足を奪われたような感覚に落ちた。そうだ、これは、自分の今の感情を表すのに、これ以上の形容はないな、と自分で満足した。
古びた木材の壁の塗料が、音もなくはげ落ちる様に、周りの緊迫した状況が掠れ、自分の死んだあとの事務作業に、周りの人々の心が、虚ろっていくのを肌で感じた。そう…。肌でだ。そして、今、自分の最後の作業を思い立った。
それは…。
自分の名前を思い出すことだった。本名は、ここ数年は使っていなかった。使わなくても、なんの支障もなかった。
——はて…。
思い出せなかった。自分の名前が……。何故か、安堵した。そうか、本当に自分は死んでしまうのだ…。
「ご臨終です」
医者がそう告げた。
「…おい…。今は、《生き倒れ》なんて言葉は使わないぞ…」
「えっ…。あっ、そうでした。係長、すいません。今は、《行旅死亡人》と呼ぶんでしたっけ…」
「それよりも、何か身元の分かる物など所持品を調べたのか?」
「…はい、持っていたリックサックの中に、古い新聞記事がスクラップされたノ─トがありました。これです」
そう言って男は、係長にそのノートを手渡した。そのノートには2004年に起きた《新潟県中越地震》に関する新聞記事の切り抜きが、スクラップされていた。それも山古志村に関わることだけだった。ここは、この地震の被害の大きかった地域でもあった。
「どうやら、この男は山古志村の出身らしいな…」と係長が言った。
「…山古志村?…。山古志村は、市町村合併で、今は、確か長岡市になっているはずですね…ここ大宮からは、上越新幹線ですぐじゃないですか…。どうして帰らなかったのでしょう?」
「帰りたくても、帰れなかったのではないか?山古志村では、全壊の家屋が多く出たんだ…。これは憶測だが、大宮でホームレスをしていたのは、できるだけ山古志村に近いところに居たかったのかもしれない…。すぐに、長岡署に男の身元の照会をしてくれ…それと…」
係長はここで、思案顔になり、語気を強めて言った。
「この男を襲った連中の捜査だ!ふざけた野郎どもだ。行くぞ!」
走り出した係長を、部下の男が追った。
「はい!」
スベリヒユの花弁が風に舞い、落ちた。しかし、それを知る人はいない。