夏の手前は、空気の層が一枚増える。通りの照り返しは白く、冷房の白い音が建物の隙間で薄く振動する。私はこの街で海を見ない。見えないことが日常の厚みになり、喉の奥に乾いた膜ができる。歩幅は短く、呼吸は浅く、昼の前でいったん止まる。そのとき、胸の内側で別の季節が先に動き出す。表面に触れない海が、皮膚の裏で目覚める。手の甲に小さな汗が立つ気配。私は信号の影に立ち、信号の青ではなく、もっと深い青を探す。見上げれば、窓ガラスに空の断片が浮く。そこでようやく、遠い窓の角度を思い出す。講義室の窓。あの高さ、あの位置。夏の入口で、私はそこへ沈む。アスファルトの匂いは熱に混ざり、靴底から上にのぼる。光は白く、肩の上で粒のまま跳ねる。私は額に触れ、汗が落ちる前の温度を確かめる。確かめる動作そのものが、別の海へつながっていく。
黒板の白は粉になって光へ溶ける。講義室の空気は少し熱く、机の金属には指先の汗が薄く貼りつく。私は前を向くふりをして、横にある窓の縁を見ている。窓が切り取る長方形の端で、青が水平に張られている。入道雲は重たく、輪郭だけが硬い。風は届かないのに、塩の気配がまぶたの裏でわずかに濃くなる。遠い蝉の声が、壁の向こうで薄く揺れる。板書はすぐ消える。消し跡の白い粉は爪の隙に入り、手の動きと一緒に空へ散る。残るのは、窓の向こうに並ぶ濃度の層だ。深い青は奥で暗く、手前に向かって色が軽くなる。机の天板には窓の光が小さな湖のように集まり、私の影がそこを横切ると、波のない変化だけが起きる。私は視線を少しだけ下げ、ガラスに映る自分の輪郭と、向こうの青を重ねる。二重像ができる。そこにだけ、私の在りかがはっきりする。新潟大学の講義室。そこから見える日本海。私はその角度で、世界を受け取っていた。講義の時間は伸びたり縮んだりし、分の刻みは板のきしみで測られる。最前列も最後列も関係がない。窓の高さが、私の高さになる。窓枠のアルミは熱を持ち、触れればすぐに指を離す。離した指先にだけ、海の気配が残る。
その青は、眺めではなく、私の内側の濃度計になる。腕に貼りついた汗が乾く手前の塩、胸骨の裏の薄い膜、息をどの長さで吐くか。その日ごとの加減を、私は青で測る。光の粒が粗い日は呼吸を短く、粒が細い日は長く。まぶたの裏に宿る色温度で、いまの自分の位置を確かめる。誰も気づかない。気づかないまま、授業の出入りがつくる風が通る。私はノートの端に数字を書かない。書けば逃げるから書かない。濃度は記録ではなく、身体に留めるものだ。机の角に腕が触れ、金属の冷たさが薄れていく。基準が少しだけ動く。窓の青は変わらないのに、私の内側の尺度だけが微かに変わる。そこに、日々が積もる。朝、教室へ向かう階段で息が上がるときも、帰りの自転車で風が頬を切るときも、私は青で測る。測った結果は誰にも渡らない。渡さないまま、体内の時計の横に並べておく。
離れる日が来る。構内を抜ける風は同じ匂いを運ぶのに、私の足音だけが別の方向へ向く。改札の金属は乾き、紙の切断面は白い。封筒の角は固く、触れた指に四つの面で記憶を押しつける。座席の布はざらつき、肘掛けの樹脂は眠気を拒む。窓際に座ると、車窓は私の顔を映し、向こうの青と二重になる。速度があがるたび、水平線はわずかに崩れ、窓の角度が変わる。あの講義室の高さは手の届かないところへ退き、同じ角度からの青は再現されない。それでも私は目を逸らさない。最後ではないのに、最後に似た瞬間が通り過ぎる。指先の塩は薄れ、喉の膜はほどけ、代わりに車内の空調が白い音を増やす。私は涙を持たない。持ち帰るためのものは別にある。同じ角度からは、もう見られないとわかる。それだけが、はっきりと残る。駅の名は記憶から剥がれ、窓の外の看板は色の帯に変わる。角度は失われ、濃度だけが残る。駅のホームに立つ人々の色はばらばらで、誰の輪郭も私の輪郭に重ならない。重ならないまま、列車は街の層へ沈む。
いま、私は海のない夏を歩く。ビルのガラスは空の断片を浮かべ、交差点の白は眩しさだけを増やす。冷房の白い音が、午後の厚みを均す。喉の膜は一日の終わりに薄く戻り、手の甲の汗は乾ききらない。私はときどき立ち止まり、胸の内側の濃度を測る。基準は遠くに置いたまま、ここで働く。私は青で測る。窓はないのに、窓の角度を体内で再現する。まぶたの裏に水平が引かれ、視界の奥行きが静かに整う。コンクリートの熱が靴の底から上がり、駅前の植え込みの湿りが足首のあたりで途切れる。夕方の風は方向を決めず、信号の音は低く切れる。私は深さを測る。海は見えない。けれど、夏が来るたび、青は私の内側で濃くなる。