低い音が先に来て、光が一拍遅れて夜を反転させる。はじめての夏、私は河川敷の草の湿りに座り、見上げる首の角度を固定する。群れの呼吸が一度だけ止まり、胸骨の奥で薄い層が震える。火薬の焦げが風に混ざり、喉に浅くひっかかる。闇はいったん昼の白さに塗り替えられ、すぐに元の黒へ戻るのに、目の内側だけは明るさを保持したまま遅れて沈む。信濃川の風は気まぐれで、涼しさと熱の層を交互に運び、足元の砂利をかすかに鳴らす。音は空からではなく、地面を経由して身体にやってくる。胸の前で波になる。私は耳でなく、腹で受け取ることを覚える。夜は高く、遠く、なのに近い。空は広がるのではなく、ひらく。花は上で咲いて、私の中で鳴る。
在学のあいだ、私は毎年そこへ通う。薄い敷物の隅を靴で押さえ、隣の誰かの体温の範囲を測る。肩が触れる距離の年も、少しの隙間を置く年もある。笑いは一度だけ渦を作って宙でほどけ、息の気配は形を持たない。視界の端で、誰かの指が空を追う。その指は次の年には別の手に変わる。長岡花火は同じはずなのに、同じに留まることを拒む。低い音が胸の奥へ届き、光が遅れて形を確定させる順序は変わらないのに、圧の深さが毎年更新される。残光の尾は少し長く、空の黒はわずかに濃い。去年の驚きが薄れるのではなく、上から新しい驚きに重ね塗りされ、古い層が内側で保護される。私は夜の終わりに背中の砂を払うたび、去年よりも多くの粒が落ちるのを感じる。人は入れ替わり、立ち位置はずれ、覚えている声の高さは変わる。それでも、胸で受け取る音の型だけは、必ず越えてくる。
卒業して離れた年、私はスクリーンの光で季節を埋め合わせる。映像は形と色を忠実に運び、編集された時間は滑らかに連結されているのに、胸の膜は震えない。低音は空気を経由しないかぎり、ただの数値に変わる。火薬の焦げは届かず、風の遅さは平面の光には現れない。光は速い。風は遅い。そのずれの中にしか、あの夜の全体は立ち上がらない。ニュースの言葉は正確で、花の名前や直径を数えることに迷いがない。数字は記憶の外形を支えるが、内側の濃度には触れない。私は指先で再生バーを進め、見たはずの場面に到達する。到達の瞬間に胸の波は立たない。私は欠落の形をなぞることを覚える。見えているのに、足りない。足りないのに、見えている。
戻った年、私は同じ川のほとりで首の角度を再度固定する。隣にいる人の呼吸の間は、昔とは違う。昔、隣にいた人の体温はここにはいない。それでも、低い音は先に来る。大きな玉の重さが腹に着地し、遅れて光の骨組みが空いっぱいに展開する。正三尺玉の沈むような圧が地面から上がり、遠くまで走る帯の連続が夜を水平に引き延ばす。フェニックスの長い光は、川面を渡る風の向きを一度だけ反転させ、群れのざわめきを無言に変える。私は目の前の空で現在が生成されるのを見ているのではなく、内側で記憶の型が更新されるのを聴いている。花火は慰めではない。古い層を剥がすのでもない。層の上に新しい層を置くことで、古いものの厚みを保証する。去年の私を、いまの私が追い越す。誰かのいない隙間は、そのまま空の黒に繋がり、そこへ新しい光が差し込む。越える対象は他人ではなく、記憶だ。越えてくるのは、夜そのものだ。
私はまた一年を待つ。待つことは減少ではなく、濃度の調整だ。季節の手前で、胸の内側の層は音の到来に備えて薄さを変える。街の昼間は私の胸を鳴らさない。数字や予定は正確で、時間のつながりは便利だが、風の遅さはそこにはない。河川敷へ向かう道の砂ぼこり、列の間に挟まる匂い、石に腰を下ろしたときの体の重さ。低い音が先に来て、光が遅れて夜を反転させる順序を、私は身体に思い出させる。光は速い。風は遅い。その差で、夜がひらく。隣に立つ人はまた変わるだろう。笑いの高さも、肩の温度も、名前のないまま入れ替わるだろう。けれど、夜は同じでいることを拒みながら、毎年きちんと私を更新する。空は広がるのではなく、ひらく。花は上で咲き、私の中で鳴る。長岡の夜は、これからも私を越えてくる。