にいがたショートストーリープロジェクト2026

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エトワール 水越翔 著

 フイルムにあの日掬い取った画像が浮かび上がった。あらゆる色彩が時間に濾過されてモノトーンに移し変えられていた。黒と白の粒子が重なり合いどちらかの濃淡を強めた。

 光彦は、撮った写真はすぐには現像しない。カメラに閉じ込めておき、過去の記憶が風化しそうになる気配が好きなのだ。しかし、今回は違った。光彦に、現像を促したのは、一通の手紙だった。

 最初に輪郭を浮かび上がらせたのは女の背中だった。七年、いや八年前なのにその女の着ているストリート・ドレスの色調が思い出せなかった。微かな心の翳りを振り払うように光彦は暗室の明かりを点した。画像を鮮明にするために水洗いした。

——あの女…そう…水越里奈。

 里奈の肩越しに絵画が掲げられていた。里奈はそれを見詰めていた。

 エドガー・ドガの《エトワール》。

 封印された写真画が浮き出たように里奈の声も蘇った。

「こんな風に一方的に別れを切り出されても、私が取り乱したりしないことを貴方は充分に知っているものね…」

 話し言葉の最初の上ずりがちな口調まで光彦は思い出した。そしてそれは決して皮肉めいた色合いを含んでいないことも…。

 オルセー美術館の最上階。午後になってやや衰えた外光が床の上を浸し始めた。

 里奈は振り向いた。髪が勢いを余して波のように流れた。眼から縦に筋のような線を光が稜線のようになぞった。整いすぎる顔の造りに綻びはなかった。微かに瞳に湿りが見えたが、それも、すぐに消えた。いつもの里奈のように感情を理性に滑り込ませたのだ。

「いいわ…別れましょう…。但し条件があるわ…」

 そう言って里奈は唇を一文字に結んだ。

「私が美術評論家として一人前になり、どこかの美術館で絵画や芸術家の解説をするようになったら招待するわ…。その時は必ずそこに来ること…いいわね…」

 里奈は東京都内の芸術系の大学で光彦と同級だった。卒業後に光彦が、報道カメラマンを目差して、ただ闇雲にヨーロッパを放浪していたのに対し、里奈は明確な目標を持ってヨーロッパに私費で短期留学を繰り返していた。それは—美術評論家—になる、ということだった。

 光彦は里奈の申し出にただ黙って頷くしかなかった。

「貴方の実家は新潟県新発田市の写真館よね…」

「そう…川瀬フォト・スタジオ…」

 それから里奈は光彦に背中を見せ、ドガの《エトワール》を見詰めなおした。

 その時、ある衝動が光彦を襲った。いつも手にしているカメラでその後ろ姿を撮った。

 後で冷静に考えてもどうして自分がそのような行動をとったのか解らなかった。

「キスして…」

 里奈の肩が微かに震えていた。

「冗談よ…」

 そう言って里奈は光彦に背中だけを見せてその場を去った。ヒールの高い靴音だけが響いた。西日に晒された里奈の長く伸びた影が、引きずられて去っていく。その場にはドガの絵画と光彦だけが残された。

 《エトワール》の踊り子のパトロンとおぼしき男がカーテン越しに踊り子を見据えているその絵画の構図。その構図の中のパトロンを見た。しかし、その男の顔の表情はカ─テンに隠れて見えない。その男が─本当にこれでいいのか?今、追いかければ間に合うぞ!

 と呟く声を光彦は聞いた気がした。

 光彦は、結局何者にもなれず、父が亡くなり、その写真館を継ぐことを口実に帰国した。それが三年前だった。

 

 光彦は、改めて手紙を読んだ。簡単な文面だった。

 講演名【パリ留学への期待と不安!《氷柱の金魚》に表象する蕗谷紅児の心象風景】

 そして、日時、場所は【新発田市市民文化会館・一階講堂】さらに講演者は【水越里奈】と記載されていた。市民会館は、蕗谷紅児記念館に隣接していた。封書には招待券も含まれていた。その他には何も記載がなかった。

「水越里奈…」

光彦はその名前の所だけ声を上げた。

 そして——美術評論家でもある…と、心の中の呟きとして付け加えた。やはり、彼女は、自分の目標を達成したのだ。あの日の、パリでの別れが、少なからず貢献したであろうことに光彦は、素直に喜んだ。そしてその日が来た。

 

——…紅児はその繊細な自我に苦しんだが、その繊細性が才能を開花させたのです…。

里奈の声を聞くのは、オルセー美術館で彼女と別れて以来のことだった。入り口のドア越しに聞こえる言葉の一言、一言に、光彦は、何か他人の靴を履いたような、居心地の悪さを感じた。それがどこから来るのか、確かめるように耳をそばだてた。

 

——…どうですか…この紅児の画風には、私達の心の深淵を覗かれたような感じになりませんか?…

 居心地の悪さ、の正体が分かった。

——この声は、里奈ではない!

 講堂の入り口のドアを開け中に入った。講演会は、七、八割の入りだった。光彦は、演壇の中央で着席している女を直視した。やはり、里奈とは違う女性だった。立ったまま着席しない光彦に、彼女が気付いた。

 話しが、そこで中断され、後の言葉が続かない。不自然な沈黙が、ほんの少しの間、会場を支配した。聴衆の何人かは、光彦に気付き、後ろを振り向いた。沈黙に耐えかねたように演壇の彼女が口を開いた。

「実は、皆さんにお話しなければいけないことがあります。《水越里奈》は私の本名ではありません。私は彼女と同じ美術評論家志望で、パリで知り合いました。しかし、彼女は、志半ばで病を得て亡くなりました。その志を継ぐため、遺族の了解を得て、《水越里奈》と名乗らせて頂いています。……」

 話の文脈の流れが突然変わった。聴衆に少なからず戸惑った空気が広がった。彼女の言葉は、明らかに光彦へのメッセージだった。

——里奈が病を得て亡くなった……。

 彼女から、里奈は亡くなった、と聞いても光彦にとって実感がなかった。彼女の言っていることが冗談で、光彦を驚かすためにこの聴衆のなかに、里奈が潜んでいるのでは、という根拠のない考えまでも生じた。

——里奈が…いない…。

 その後は、里奈と名乗る女の声が断片的にしか響かなかった。光彦は講堂を出た。そして気付いた。講堂の入口の横に貼ってあるレプリカのポスターに…。

 《巴里小景 夜》と銘された絵画。カメラの中ではなく、額に封印された女が一人、佇んでいた。その怪しげな眼は、真っすぐ光彦に向けられていた。彼女は里奈だった。その絵画から里奈が抜け出た。

「キスして…」

 紛れもない里奈の声だった。光彦は自分の肩に震えを感じた。背中を見せた里奈は身動ぎもしない。じれて、その肩に手をかけようとした時、里奈は振り向いた。光彦は、彼女の唇だけを見つめ、それに自分の唇を重ねた。そこにあの里奈の芳しい匂いが立ち上がるはずだった。しかし、それは容易に訪れず、ただ、ただあの暗室の現像液の薬品の匂いだけが、光彦を包み込んだ。