「なじらね」
新潟にいる母からの電話は、いつもその言葉から始まった。
金曜の夜、八時を少し回ったところだった。コンビニで買った弁当をテーブルに置いたとき、スマートフォンが鳴った。画面には、母、と出ていた。少し迷って、出た。
「なじらね。ちゃんと食べてる?」
「……今から」
「そっか」
母の声を聞きながら、弁当のふたを開けた。冷えた唐揚げの下で、油が白く固まっていた。
入社して三年目になる。
別に、ひどい会社ではない。残業も、世間で言うほど多くない。今日だって、八時には帰れている。給料も、たぶん普通だ。ただ、うまくいっているかと聞かれれば、違った。
春に任された案件は、途中から先輩と二人で進めることになった。俺一人では時間がかかりすぎる、と上司に判断された。間違ってはいない。それが、余計に腹立たしかった。
会議で出した意見に、「もう少し考えてみようか」と言われたことがある。その日の帰り、廊下で課長が誰かと話していた。最近の若い子は、打たれ弱いからなあ。俺のことではなかったのかもしれない。でも、その日から、その言葉だけが残った。
テレビをつければ、若者はどうの、Z世代はどうの、と誰かが話している。
そういうふうにしたのは、あんたたちだろう、と思う。自分たちで作った社会のくせに、うまくいかなくなると若い世代のせいにする。教育が悪かった、時代が違う、根性がない。失敗しました、と頭を下げる大人を、俺はあまり見たことがない。
間違っているとは、思えなかった。
「仕事は、どう?」
母の声で、意識が戻った。
「ふつう」
「そっか」
母は、間の取り方がゆっくりしている。昔からそうだった。こっちが黙っていても、急かさない。
「こないだ、庭の柿がね、今年はよく生ったのよ」
「ふうん」
「送ろうか」
「いいよ、そんなの」
どうでもいい話だった。どうでもいい話をしているうちは、まだよかった。
「無理してない?」
「してない」
少し間があって、母は言った。
「もうだめだったら、いつでも帰っておいでよ」
その一言で、腹の底のものに火がついた。だめだったら、って何だ。俺が潰れる前提で喋るのか。母まで、あいつらと同じことを言うのか。
「変なこと言わないでくれよ」
「え?」
「順調なんだよ。頑張ってるんだよ。なのに、なんでみんなして、俺が失敗する前提で喋るんだ」
「そうね」
電話の向こうで、母が小さく息を吸った。
「……ごめんね」
何を謝ってるんだ、と思った。胸の奥が、ずきりとした。その痛みが、なぜか腹立たしかった。
「……もう寝る」
そう言って、切った。切ったあとの部屋が、さっきより静かだった。
翌日、宅配便が届いた。冷凍便だった。判子を押して受け取ると、箱は角に霜をつけて、思ったより重かった。
開けると、凍ったのっぺが三つと、笹団子が五つ。緩衝材の隙間に、白い紙が一枚、挟まっていた。
のっぺ 600Wで4分
笹団子 自然解凍
母の字だった。それだけだった。
伝票を剥がそうとして、手が止まった。発送日は、昨日だった。
のっぺを皿にあけて、レンジにかけた。回っているあいだ、里芋と出汁の匂いが、少しずつ部屋に広がった。人が作った料理の匂いが、この部屋に広がるのは、久しぶりだった。
温まったのっぺを、食べた。里芋を噛むと、少し味が濃かった。昔からそうだった。母ののっぺは、いつも少しだけ味が濃い。正月に親戚が集まると、母は大きな鍋いっぱいに作って、それでも足りなくなった。
笹団子を、一つ解凍した。一つでよかったのに、なぜか二つ、皿に出していた。
スマートフォンが、テーブルの端にあった。母の名前を開いて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。何を打てばいいのか、分からなかった。
結局、何も打たないまま、まだ少し冷たい笹団子を、俺は食べた。よもぎの味が、口の奥に広がった。
なぜか、もう一口が、なかなか飲み込めなかった。
次の休みに、柴又へ行った。理由は、自分でもよく分からなかった。用事なんて、何もなかった。ただ、部屋にいたくなかった。
駅を出て、帝釈天の参道を歩いた。平日なのに、人が出ていた。煎餅の焼ける匂いや、佃煮屋の醤油の匂いが、細い道に混ざっていた。
団子屋の店先に、草だんごが並んでいた。緑色の団子に、あんこ。よもぎの匂いがした。笹には、包まれていなかった。
俺は一度、隣の棚の、きれいな箱に入った土産菓子を手に取った。そっちのほうが、送るには無難な気がした。でも、しばらくして、棚に戻した。かわりに、草だんごを一箱買った。冷凍のものも扱っていた。
「ご自宅用ですか」
「……いえ」
送り状を渡された。宛名を書いた。母の名前は、思ったよりすんなり書けた。
余白を前にして、ペンが止まった。しばらくして、一行だけ書いた。
草だんご 今日中に食べて
発送日の欄に、今日の日付を書いた。