『時刻は22時を回りました。気象情報です。』
木製のチェアにたてかけたラジカセから流れている。
『今日は午前中から曇り空が続きでしたが、夜にかけて風が出てくる模様です。』
若い男は懸命に耳を傾けている。
『明日の新潟は、今日…と同じくらい冷える…予報で…引き…続き…』
ところどころノイズが入る。男はそれに気が付き、ラジカセの背中についているハンドルを回し始める。
『真冬並みの寒さは週末には収まるでしょう。来週は火曜日ごろから気温がやや上がる見通しです。』
若い男は吐息で手を温め、湯が入ったタンブラーをリュックサックの中から取り出そうとした。
『…気象情報をお伝えしました。』
若い男は、ラジカセの電源を切った。そして彼は不安そうに空を見上げ、手元にあるラミネート加工が施された紙に目をやった。〈せいざ早見表〉確かにこう書かれている。年季が入ったもので、下の方にマジックペンで名前が書かれている。子供の頃に書いたのであろう、大きさがバラバラなひらがなで、〈おおくま ほくと〉と書いてあった。
大熊北斗、大学2年生。東京の大学に通う彼は、長い春休みを活かして帰省してきた。彼は妹の大学受験の事を考慮し、年末年始の帰省をやめていたのだ。彼女は長かった受験勉強から解放されたことで友人と久しぶりに遊びに行ったらしく、北斗はまだ会えていない。いま北斗がいる丘から実家の灯は見える。さきほど玄関が微かに光ったことを思うとおそらく妹は帰ってきたのだ。彼は改めて22時を回っていることを思い出した。
一体どうして彼はこの寒空の下、1人でいるのだろうか。
「やっぱり見間違いだったのかな」
彼は思わずつぶやいた。そうして発せられた息も白くなる。
彼は今夜、どうしても星空が見たくてこの丘にいるのだ。いや、正しくは星空を見たいのではない。もし星空を見たいのなら他の県でも良いし、思い切って海外に出たって良いのだ。しかし彼はどうしても新潟県のこの丘、自宅の裏にあるこの丘でなくてはいけないのだ。かつて彼はその目でみた、2時の方向から8時の方向まで伸びた、新潟県の形をした星座「にいがた座」を見たかった。10年前に一度だけみた「にいがた座」。後にも先にも一度だけ。そして自分の他に誰も見たことがない。それでも鮮明に彼の記憶に刻まれている。あの「にいがた座」をもう一度だけ見たい、そう切望した彼はこうして地元・新潟の実家裏の丘にあの日と同じ時期・時間を選んでやってきた。
しかし「にいがた座」は現れない。頭上には北斗七星のみだ。
彼はくしゃみをした。ラジオが言っていた通り風が出てきたのだ。
そういえば10年前のあの日もこんな寒さだった、と思い出した。
その日の夜、10歳の北斗少年は困り果てていた。明日の朝イチで提出することになっている、理科の自然観察の宿題に手をつけていないことを夜になって思い出したのだった。まだ親には話せていない。話せばきっと怒られると思ったのだ。夕飯前にゲームをしていたあの時間は一体何だったのかと。しかし彼は課題の未提出よりも親に怒られることを選択した。未提出であることが分かるとどの道怒られるのだ。
父親の亮賢(りょうけん)に恐る恐る話すと答えは意外なものであった。
「ちょうどいいじゃないか。じゃあ裏の丘に星を見に行こう。究極の自然だろう。」
こうして父子は厚着をして21時の星空の下に出かけた。北斗の手にはあのラミネート加工のせいざ早見表がある。
しかし、その自然というのは意地悪であった。美しい星空をまるで隠すように薄い雲に覆われてしまっているのだ。困ったことになった。
「少し待ったら雲がどいてくれるかもしれないよ。母さんと麦は先に寝るって言っていたし。」
それから2人は丘の上で座って空を見上げた。2人は特に何も話さない。後から分かったことなのだが、父・亮賢はそのころ会社の昇任試験の結果待ちの時期であったらしい。思い返せばそのころ少しソワソワしていたように思う。
どれほどの時間そうしていたのだろうか。突然、風が吹き始めた。
「ジャンバー着てきてよかったな。」
亮賢はそう言って前を開けていたジャンバーのボタンまで閉めた。
うん、とうなずこうとしたその時、彼は空を見上げた途端に息を飲んだ。
そこには、まるで黒い紙に絵具を散らせたような、それでいて一見すると白と黒しかないような、不思議な光景が広がっていた。少年時代の彼は「なるほどこれが星空か」、と至極すんなり受け止めた。感受性がそう強いほうではないと自覚している。悲しい映画を見ても、良い映画だと感じるだけで涙がこぼれることは無いし、ましてや景色に対して別段感想を抱くことなどなかった。しかしこの星空はあまりに美しかった。息を吸うだけで吐くことを忘れていた。「もし宇宙で呼吸をしようとしたらこんな感じなのかな」と感じた。何故か季節を忘れて、真夏のプールの水中で呼吸が出来ないながらもがいた水中を思い出した。彼はこの光景をレポートにまとめたくなかった。この感動を文字にできる気など、自身の国語力では到底思えなかった。思うように表現できずに記憶が汚れるのではないかと恐れた。
「北斗、あれが北極星だぞ。」
北斗は目で追った。
「昔の人はあれを頼りに方角を知っていたのだってさ。たかがひとつの星なのに、あれを頼りにしていたんだ。」
彼は父の話をもちろん聞いていたが、どこか心ここにあらずといったところだった。
星空に圧倒されてしまったのだ。そしてまだ子供であった彼は、美の衝撃を体内で処理することに急激に疲れ眠くなってしまった。思わず彼は横になってしまった。横になると、見える星の範囲が広がることに気が付いた。
「ほら、あそこに銭湯でかけ湯をするときに使う桶みたいな横に長い形が見えるだろう。」
亮賢は続けて言った。
「北斗。あれが北斗七星だよ。かっこいいだろう。分かりやすい形だからさっきの北極星を夜空で見つける時に手掛かりになるんだよ。お前が生まれた日、病院から出て空を見上げたら輝いて見えたんだ。でもね、北斗七星だけでは北極星は見つけられない。他の星座と組み合わせて探すんだ。」
北斗は目を閉じてしまって寝転んで聞いていた。そして目を開いたその時、彼の目には住んでいる県の形をした「にいがた座」が映っていた。
北斗青年はまたくしゃみをした。そして彼は思い出した、10年前のあの日、彼は寒空の下に出たことが災いし、熱を出して寝込んでしまったのだ。確か課題は提出できなかったように思う。
これではまた風邪を引くと思い、持ってきた毛布にくるまって寝転んだ。
すると、彼の目には確かに10年前に一度だけみた、誰に聞いてもその正体を知らなかった、あの日から一度も見なかったのに彼の脳裏に焼き付いて離れない「にいがた座」が映った。
次の日の昼頃、北斗は家族と駅で別れ東京に向かう電車の中で頬杖をつき家の方向を見ていた。彼は「にいがた座」をもう一度見ることができて嬉しかった。
10年前、北斗は横になった状態でその北斗七星を見てしまい斜めに傾いて見えたのだ。それが結果的に新潟県の形に見えたのだった。父・亮賢を始めとした他人は正しい向きでしか北斗七星を見たことがないため「にいがた座」を見たことはなかったのだ。
謎が解けてしまえばただの子供の勘違いに過ぎない。しかし、10年前にあの星空を見た衝撃が薄れることは無かった。
「北斗七星だけでは、正しい方角を示す北極星は見つけられない。だから周りの星座と組み合わせるのだ。」彼はこの言葉を忘れずに生きていこうと思った。
完
以下参考文献
・りょうけん座|やさしい88星座図鑑
https://www.study-style.com/seiza/CVn.html (最終閲覧日 2026/02/28)
・北斗七星とおおぐま座、こぐま座|
天城高原のひととき Staff Blog | 天城東急リゾート | 天城高原のもりぐらし【公式】
https://amagikogen.co.jp/staffblog/1008/ (最終閲覧日 2026/02/28)
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