始まりは15メートルから 莇 健太郎 著
上田直樹は戦場カメラマンの写真展に来ていた。すでに二時間以上鑑賞している。直樹の入館から三〇分遅れで入ってきたのが中谷美和だった。午後一二時半になろうとしていた頃、二人は同時に出口に向かった。出口付近は狭かったため、直樹は美和に、どうぞ、と通路を譲った。
「ありがとうございます」
美和はお礼を言い外に出た。続いて直樹も写真展を後に渋谷の駅に向かって歩いた。交差点では多くの人たちが信号待ちをしている。直樹はその中に先ほどの女性を見つけ声をかけた。
「彼の作品、いつ見ても鋭いですね」
美和は後ろを振り返り、その男性が先ほどの男性であることを確認すると言葉を返した。
「『Hopeless』に写っている悲しげな女性のあの表情は忘れられないです」
「僕は『Frightened Eyes』 に写っている、兵士の横にいる怯えた少女の顔が忘れられない」
「ソマリアの内戦ですよね」
信号が変わり一斉に動き出した人々の群れは、まるでアリの行軍のようだった。
「このまま話してもいいですか」
美和は躊躇せずに、はい、と答えた。
「僕は明日の朝一番で広島に帰ります。もしよかったら今日一日、僕に付き合ってもらえませんか」
「私も明日の朝、新潟に帰ります。でも、今日は時間があります」
「お腹が減ったから食べながら話しませんか」
二人は交差点を急いで渡った。
「東京駅に行きましょう」
電車に乗り東京駅に着くと、二人はファストフードでランチをとりながら会話を続けた。
「突然声をかけられて驚いたでしょう」
「はい、驚きました」
「またまた突然ですけど、今日の僕たちにルールを設けませんか。それは、フルネームを教えないこと。それに連絡先も。ただ、今日の最後に、もし次もお互いに会いたいと思ったら、一ヶ月後の日時を決めて渋谷のハチ公で会いましょう。どうですか」
「なんか映画みたいで素敵ですね」
「じゃあ改めて、今日はよろしくお願いします。僕は直樹です」
「私こそお願いします。美和です」
「美和さん、食事が終わったら皇居東御苑のつつじを見に行きましょう。きれいですよ」
「つつじですか、いいですね」
「美和さんは、いつ頃から彼の作品に興味を持つようになったのですか」
「最近です。大学の国際政治の講義で先生が彼の写真を見せてくれたのがきっかけです。直樹さんはどうして彼に惹かれたのですか」
「美和さんと似ています。僕も大学では国際政治を専攻しています。教授から五人の戦争報道写真家の写真を見せられ衝撃を覚えました。その中の一人が彼でした」
「なんか似ていますね、私たち」
ニコッとしてアイスティーを飲む美和の表情に、直樹の心は躍った。店を出ると二人は、皇居東御苑に向かった。喧騒の通りを歩きながら二人は話し続けた。
「直樹さん新潟に行ったことありますか」
「まだないです」
「いいところですから一度遊びにきてください」
「是非行きたいです」
「私の実家は長岡です。お気に入りの場所は越後丘陵公園です。パラやチューリップのお花畑や、里山の自然を生かした散策路、それに大型遊具やバーベキューエリアもあって一日中楽しめます」
「行ってみたいな。さあ、着きましたよ」
二人は見事に咲き誇る赤やピンクのつつじを鑑賞しながら会話を続けた。
「美和さん、卒業したらどんな仕事をしたいですか」
「国際政治関係の仕事がしたいです。たくさん勉強して国連とかの国際組織で内戦や難民問題を解決したいです」
「素敵ですね。僕はNGOで政府ができないことを解決していきたいと思っています」
「それも素敵です。直樹さんならきっとやり遂げますね」
「美和さんもですね」
話題には事欠かず時間だけが過ぎていった。
「美和さんのホテルはどこの駅ですか」
「神田です。直樹さんは」
「浜松町です」
「お互いここから近いですね」
「神田で夕飯食べましょうか。そうすればホテルにすぐ帰れる。居酒屋でもいいですか」
「はい、もちろん」
二人は浜松町まで徒歩二〇分の道を軽やかに歩いた。
「美和さんは何人兄弟ですか」
「姉と妹がいます。直樹さんは」
「妹が一人います」
「高校生ですか」
「来年受験です」
「大変ですね。がんぱらないと」
「あいつ僕と違って結構頭がいいので大丈夫でしょう。東京の大学に行くつもりのようです。美和さんのところは」
「姉はもう社会人で妹は高校一年生です。これ三人で撮った写真です」
「そっくりだ。みんな似ていますね」
「私たち父親似です。一人くらいお母さんに似てもよかったのに」
「僕は母親似で妹は父親似です。これ家族写真です」
「仲がいいですね。楽しそう、みんな。どこで撮ったのですか」
「僕が大学に合格したときの九州旅行の写真です。三泊で行ってきました。美和さんは九州行ったことありますか」
「ありません。そのうち行きたいなと思います」
「一緒に行けたら楽しいでしょうね」
「きっと」
二人は神田駅に到着し近くの居酒屋に入り会話を続けた。
「今日は相当な距離を歩いて疲れたでしょう」
「本当、すいぶん歩きました。久しぶりです。高校までは陸上部で毎日走り込んでいました」
「僕は映画研究部で映画ばかり観ていました。今もそうですが」
「一本だけ好きな映画をあげると何ですか」
「難しいな、その質問。ちょっと古い作品ですけど『ブラックホーク・ダウン』かな」
「まだ観ていないので今度借りて観てみます」
「美和さんの一本は」
「友達からは何それって言われますけど、『それでも夜は明ける』が好きです」
「渋いですね。実話がベースの作品ですね。僕の評価も高いですよ」
「以前は恋愛映画を観ていましたが、最近は女の子があまり観ないような映画が多いです」
会話はさらに続き気が付いたら午前一二時に近かった。
「美和さん、もうこんな時間、帰りましょう。僕たちのルールを守って、このまま苗学も連絡先も聞かないで帰りましょう」
直樹は携帯を出しカレンダーを見た。
「六月五日土曜日、午前一〇時に渋谷のハチ公で会いましょう」
美和は携帯のカレンダーに入力した。
「直樹さん、楽しみにしています、またの再会を。今日は本当に楽しい一日でした。ありがとうございました」
二人は居酒屋を出ると、それぞれが宿泊するホテルに戻った。
午前一時、直樹は後悔し鏡に向かい自分に話しかけていた。
「かっこつけなくてよかったのに。パカだよな、俺。素直に好きだと言えばよかったのに。連絡先聞いておけばよかったのに。でも今更遅いな。神田のどこのホテルかもわからないし。もし彼女に急な用事ができて六月に会えなかったら、本当にもう会えない」
美和も同じだった。
「六月五日、もし急な用事ができて行くことができなかったら、もう二度と会えない。美和のバカ。何で連絡先聞かなかったの」
午前二時、直樹はタクシーで渋谷に向かいハチ公の前に腰を下ろした。
「いるはずないよな、この時間に。会うのは一ヶ月も先の六月五日だからな」
しかし、直樹は何かを感じ、ふと顔を上げた。そこには、タクシーから降りる美和がいた。美和も直樹を見つけた。十五メートル先にいるお互いを見た瞬間、今日で終わるかもしれなかった一目が、始まりの一日へと変わった。
了