明和七年(西暦1770年)の七月の日の沈みかけた黄昏時。夏のつづれさせ蟋蟀(コオロギ))が翅を震わせ、ときおり水田を撫でるようなそよ風に紛れて「リィリィリィ……」という音がした。
いよいよ夕日が没し、耕作地の脇に拵えた小屋に、一人の若い男が現れ、「ピューピュー」と笛を吹き鳴らすなどして猪追いの見張りをしていた。今日は星夜だった。天の川の繊細な顆粒の集合は、薄ぼんやりとして、空には乳が溢れたように染み付いていた。
遠方の弥彦山塊を、煌々とした月明かりが、じんわりと灰色の輪郭に浮かび上がらせている。
奉公人の伝助は「あの山、伝え聞く限り、何度となく再建を繰り返した御神廟(ごしんびょう)が奉祀され、大元の所以は神武東征にあるそうで……」と盛りを過ぎた老声で語る。
佐江彦介は「ふむ」とその話を上の空で聴き流す。
二人は越後のだだっ広い平野を歩いていた。老輩の伝助は、動きこそ緩慢であったが、長い道のりを歩く気骨は充分にあり、長旅では頼り甲斐があった。だが、とにかく喋るのが好きで、視界に入るものに反応しては、講釈を垂れる癖は、彦介にとって少し鬱陶しい。
「津軽国弘前藩の二代藩主、津軽信枚侯は、冬の佐渡沖にて、暴風雨に見舞われたといいます。荒れ狂う波に飲まれた御座船は、いよいよ限界を迎えるかに思われたました。その刹那。侯の心は、広大な神威を弥彦山から感じ取ったといいます。彼は船上から遠く弥彦山を見つめ、静かに誓ったそうで」
「なんとなんと」と、彦介は粗雑に相槌を入れてやる。
「鳥居を奉納すると誓い、神の助けを願ったそうでございます。すると、その祈りが空に届いたかのように、瞬く間に波は静まり、嵐は去った……と」
「それで、神に誓った鳥居は、弘前くんだりから建てに来られたのか?」
「いえ、鳥居の奉納を怠り、そのまま年月が過ぎたある時、毎夜、二つの火の玉が、轟音を響かせながら天守閣を中心に城内を舞い踊り、暗闇の中で、光と影を交錯させ、見る者すべて慄かせたと。その姿、古からつづく冒し難い神威が為した事であったそうな。慌てて、心中思いを巡らせた信枚侯は、難破しかけたその時の船の帆柱を用いて、国の職人に鳥居を作らせ奉納したそうです」
「ううむ。にわかには信じがたい話だ。伝助、ホラ吹きであろう」
と、彦介はからかった。
「滅目そうもございません。津軽国のお殿様のお名前を借りてそのようなことは……」
「はっはっはっ。まぁ良い。これ以上、煎じ詰めるのはよそう」
十字路の地蔵の前で、伝助は足が止まる。
「いけませんな、方位磁針が効きません」
沢辺の瀬音が、伝助のしわがれ声と混ざって聞き取りづらく、彦介は眉間に皺を寄せる。
「航海じゃあるまい、そんなモノ見ずとも山を目印にすれば良い。お主の道楽に付き合っている暇はないぞ」
「そうなのですが……」
と伝助が彦介へ磁石を見せる。
「っ! うぅむ……これは」
しかし、北に向くはずの針が、東へ西へと不規則に動く。太陽がちょうど今沈んだ辺りが、西であることは自明である。
ガチャガチャと磁石を弄りだした伝助は、「ああでもない、こうでもない」と掠れ声でぶつくさ呟いていた。
「伝助、もう後でよい。夜が更ける前に宿へゆくぞ」
「……へぇ」と、不服そうにしながらも首肯した。
本日の勤めであった談合を彦介は幾度となく回想した。
――上方との北前船を取り仕切る信濃川水運の船問屋との運上金に関する面談を終え、帰路についている途中だった。立場上、武士である彦介は大きな顔をできるが、実際、これら水運の商人には心根では頭が上がらない。というのも、作物の不作などで逼迫した財政を支えているのは実際のところ上方とやり取りを行う商人に他ならないのである。地形からして良港とも言い難い接岸できる岸壁のない場所で、北前船は突堤から小さな船に乗り換え、岸壁との間を行き来しながら、人の手と馬の力を借りて舟運の拠点へと向かう必要がある。
(あの統率と手際の良い事といったら……)
彦介は「武士とはいったい何なのだ」と戦の無い時代に生きるモノノフである【己の身元】が揺らいでいるように思えて仕方がなかった。
そんな風に根を詰めて考え事をしている時、彦介は聞いたこともないような大声で、声を張り上げた。
「佐江殿! そッそそッ……空をご覧ください!」
(なんだ騒々しい)
彦介の姿を見てまず驚いた。
跪き、天を見上げ手を合わせている。
(なんなんだ……)
ゆっくりと、彦介はその老人の視線の先を辿る。
「……ッ」
全くの意想外の事態だ。赤茶色の幾重もの光の筋が、まるで扇のように広がり、天球をおっかぶせるような様子であった。そして、天の川の妙霊な光が、大熊の鉤爪で切り裂くように分断されていた。
「噴火か? 火事か?」
水に溶ける蜜のように、それら天に広がる赤気は、ドロリと揺らめいた。
彦介は、がくりと腰が抜け、膝から地面に落ちた。その衝撃で、刀の鞘の鐺が地面とぶつかり、ザラリと音を立てた。
太陽風が地球の磁気圏に吹き込み、その外部からの強大な赤気が、天の川を貫いたのである。のちの世でオーロラと名付けられたその現象は、彦介にとって、慮外の事態であり、恐々とする他なかった。
「誠にうつくしい」
伝助はつぶやいた。
「お主……何を申すのだ……?」
「佐江殿には、どのようにお見えでしょう」
と、伝助は問いかける。
彦介は、震える声で言った。
「おう、うつくしいな。関西や江戸では、飢饉や疫病のあとは、死者を弔うために花火を打ち上げると言うだろう。きっと、きっとその類だ」
明らかに、花火とは異なるものであると、彦介はわかっていた。しかし、武士たるもの、まさか、あの様なものに見えて腰を抜かしたなどとは、口が裂けては言えまい。
天に突き上げる様に伸びる長い首。
(まるで、神話の人を喰らう……)
(ヤマタノオロチではあるまいか……!)
刹那、弥彦山の頂からは、光の柱が立っていた。
了