「きょうの予約は午後からだから……」
ナツミは、いつものように午前五時頃、目を覚ました。
彼女は、新潟市中央区の一角に建つ、こじんまりとしたマンションの二階に住んでいた。
そして二十八歳になる彼女は、この街で個人のマッサージ師をやっていたのだった。
やがてナツミはゆっくり起きて着替えると、テーブルにスナックパンやサラダを置き、座ってホッとする。ふとベランダに近付くと、サッシを開けて空を見た。
「ん、きょうも空は元気そう」
ニッコリしてサッシを閉めようとした時、雑然とした角っこで音がした。ナツミがそーっと見てみると、小鳥が一羽うずくまっていて、ピー、ピーと弱々しく鳴いている。
「えっ。……ちょっと待ってね」
彼女はキッチンで、白い小器に水を入れてから、愛飲のミネラルウォーターを少し混ぜて、その小鳥の前に、そーっと置き、
「これで元気になれば……」
サッシを閉めると食事を始め、テレビのリモコンを手にした。
やがてナツミは食べ終えると、食器類をキッチンに移し、サッシを開けてみた。すると小鳥の姿はなく、小器のそばに一輪のチューリップがあった。
「えっ。お礼のプレゼント?」
そして上を見ると、小鳥が一羽いて、チッチッと元気そうに鳴いた。よかった元気になって……と思った瞬間、ふっと飛び去った。
ナツミは、小器とチューリップをテーブルに移すと、
「ちょっと、お散歩タイムしましょう」
ブラウン色のショルダーバッグを取って、マンションを後にした。
ナツミが表どおりに出ると、通勤・通学のためだろう、十人ほどの男女が歩いていた。ナツミはフー……と深呼吸すると、彼らとは少し違う歩調で歩みだした。
ナツミは、しばらく行ったあたりで足を止め、その道の奥に目をやった。
「そうそう、あのあたりだった……」
それは数年前……ナツミがマッサージ師を始めた頃……散歩で、この道にフラッと入ると『ヒロ』という小さなカフェがあったのだ。
そしてナツミが、なんの気なしに入ると、六帖ほどの店内に客は皆無だった。奥のカウンターにいた、三十代後半くらいのマスターらしき男が、笑顔を見せて、
「はい、いらっしゃい」
ナツミはちょこんと会釈して、カウンターまで行って座った。
「おはようございます。ご注文は?」
「えっと……アイスコーヒーをください」
横の窓から万代橋が見えていた。
それから少し雑談して、アイスコーヒーを出しながら、マスターが、
「はい、サプライズです」
「えっ、このコーヒーの名前、サプライズなんですか?」
「なんかコーヒーって、サプライズ感があるでしょう。だから」
「なるほど……。でも、サプライズなら、何か付けてください」
「そうきましたか……。だったら、僕の話を付けましょう」
「はいはい。どうぞ」
「実は僕、若い頃にインドへ行ったことがありましてね」
「へー、カレーの勉強に?」
ナツミは、いたずらっぽく訊いた。するとマスターも笑いながら、
「いえいえ、ちょっとした気まぐれで」
「そうでしたか……」
「でも、あるサプライズを得ましたよ」
「どんなサプライズを?」
「口では上手く言えなくて……。音楽でも聴きましょう」
すっと奥へ入った。ナツミはクスッと笑った。すると一匹の白いトンボが、後方から飛んできて、ナツミのグラスに止まった。それを見たナツミは「えっ」と言ってから、
「マスター、ひょっとして、これがサプライズですか?」
彼は顔を出し、そのトンボに気付くと、
「いやいや、違いますよ。だけど、めずらしいトンボですね」
ナツミが白いトンボに視線を戻すと、もういなかったので、彼女はまた「えっ」
やがてナツミも好きそうな、クラシック風の音楽が流れ始めた。
まもなくナツミは、その店を出た。
そんな思い出を浮かべながら、ナツミが行きかけると、バッグのスマホが鳴った。それは午後の最初の客からで、少し後に来てほしい、という変更のメールだった。彼女は了承し、マンションへ戻って行った。
ナツミは自宅に戻ると、途中で買ったコンビニ弁当を昼食として食べた。
そしてナツミはタクシーで、この街の中ほどにある有名な和菓子店に向かった。そこの若主人が午後の最初の客だったからだ。
ナツミが乗ったタクシーが、和菓子店の近くに着いたのは、午後一時頃だった。彼女が下車しようとした時、店の勝手口に止まったタクシーから、見知らぬ女が降りて中へ入ったのだ。その女が持っていたバッグが、ナツミのそれと似ていたので、ナツミは、もしや……と思い、反対側にある別の勝手口から、人目を気にしながら入った。
そしてナツミはバッグを、廊下の途中に置くと、店舗の裏にある主人の住まいの中庭まで入っていった。
すると、若主人、黒崎浩士の部屋から、楽しそうな男女の会話が聞こえてきた。ナツミはムッとし、部屋の近くにある水槽を引っくり返した。その中には、黒崎が飼っている金魚がいて、水と共に流れ出してしまった。
その音に「なんだ、いったい!」と黒崎が障子を開けた。直後、ナツミと目が合った。
ナツミは、あっと思った瞬間、その場に倒れてしまった。黒崎は溜め息とともに「しまった……」とナツミのそばに行った。
店舗と少し離れていたせいか、関係者は誰も見にこなかった。
その部屋にいたさっきの女は、血相をかえて「失礼します」と帰っていった。
黒崎はナツミを抱き起こすと、
「大丈夫ですか?」
その声にナツミは目を開け、
「申し訳ありません。私、とんだ事を……」
「悪いのは僕の方です。あなたに内緒で、別のマッサージ師と会ったから。実は、あれは親戚の娘だったんです」
「そうでしたか……。すいません。あっそうだ、あなたの大切な金魚は?」
立ち上がった。すると、その下にグッタリした金魚がいた。それを見た黒崎は、
「間に合うかも知れない」
近くにあった透明な器を取り、小池の水を入れてから、その金魚をそーっと入れた。そして、ただ見ているだけのナツミに、
「いつだったか、『ヒロ』というカフェでマスターをしていた時、あなた、僕のサプライズのことを訊きましたね。実は、こういうことだったんです」
黒崎は片腕を服から出すと、その二本の指で、水底の金魚をはさんだ。そしてその腕の上部を噛んだのだ。すると、その二本の指がピカッと光った。直後、金魚の口がパクパクと動いた。
それを見たナツミは、思わず「えっ」と言った。まもなく金魚は、黒崎の指間から離れて、元気に泳ぎ始めた。ナツミは、
「あら、まぁ」
「よかった」
まもなく部屋から、黒崎のスマホのコールが聞こえたので、
「ちょっと失礼します」
と戻っていった。ほっとしたナツミが、なに気なく金魚を見詰めていると、金魚がニッコリして、口をパクパクした。するとナツミの頭の中で、
『あたし、彼の妹なのよ』
またナツミは、「えっ」
(了)