にいがたショートストーリープロジェクト2025

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風と共に去りぬ 池田吉伸 著

 定年と同時に会社関係者に年賀状じまいをした。翌年の年賀状は激減した。浮き世のしがらみと積年のストレスから解放されたようで、実に爽快だった。古希になったら親戚も切ろうと思う。

 年賀状といえば彼のことを思い出す。

 

 コンピュータの2000年問題で世間が騒いでいた1999年の年末、当時つくばの研究学園都市にいた私のところに一人の男が訪ねてきた。私より一回り下のかつての部下だった。私からすれば殊更面倒を見たつもりもなかったが、彼にしてみれば大学を卒業し、社会に出て最初の上司だったそうで、私はいわば、カルガモの親みたいなモノだったらしい。それはともかく、訪問の理由は耳を疑うものだった。

『来年の春まで持たない』ことがわかったので、体が動く内にこれまでお世話になった人たちへ挨拶回りをしている、という。

 そして、悲壮感漂うでもなく、それこそ久し振りに再会した友人が、昔話に花を咲かせるようにごく普通の会話を始めた。

 あの時の叱責があったからこそ、今の自分があるとか、時々連れて行っていただいたあのお店の日本酒がひどく美味しかったが、何という銘柄か教えてほしいとか、今自分の置かれている絶望的な身の上には一切触れることなく、淡々と話す彼を見て、未来のない人間に、何故こんな芸当ができるのか、私はただただ信じられなかった。

「さて、・・・」

 彼はポンと膝を打つと

「では、これで失礼します。大変名残惜しいのですが、次がありますので」

 と言って席を立った。

 余りの屈託のなさに、私は

「何か僕にできることがあれば、いつでも連絡してくれ」と返すのがやっとだった。

「ありがとうございます。先輩には、どうぞ末永くお元気で。あっ、忘れるところでした。これ、お土産です」

 そう言うと『笹川流れ』と書かれた奇岩・絶壁の海岸線が印刷された大きな手提げ袋を差し出した。

「瀬波温泉?」

「あっ、お気づきになられました⁉そうです。私が新入社員の時、合宿で先輩に初めて連れて行かれた想い出の場所、いわば私の社会人原点の地です。

 あの時先輩が、【淡麗】の部類では日本で一番旨い酒だ、と言って飲ませて下さった〆張鶴の大吟醸金ラベルと好物の鮭の酒びたしを持参しました。どうぞご賞味ください。

 実は、ひとつ前の訪問地で、次に行く先のお土産を買うことにしているんです。だから次の人には茨城県のお土産。もう秋も終わりましたが、やはり筑波は栗ですか?」

「ありがとう。後で頂くよ。ところで、一つ訊いていいかな。失礼だが、何ヶ所回るんだい?いや、その・・・君がお世話になった人って、一体何人くらいいるのかなって・・・」

「ああ、つまりどうやって最期の人選をしたのか、ということですね。きっとご興味のあるところですよね。でも、ご期待に沿えるような特別なものではないのです。何せ突然のことで、当初は私も頭が真っ白になっていましたから。そこで既存のもの、或る意味浮き世のしがらみの権化ともいえる『年賀状』のリストから絞り込んだんです。営業の私は毎年300枚ほど出していましたから。

 で、いざこうなってみて、本当にお世話になった人って誰だろう、と改めて真剣に考えました。もちろんこの世ではすべての皆さんにお世話になっていたわけですが、もう処世は考えなくて良いわけで、最後のご挨拶を差し上げるまでの相手となると・・・。私自身、なかなか興味深い体験でした」

「しばらくは0~30の間を何度も行ったり来たりしたのですが、結局9名になりました。偶然ですが、北海道から九州までキレイに散らばりました。それで最後の旅行も兼ねて、お土産リレーを思いついたわけです」

 

 その予告どおり、年明けの年賀状が最期になった。その年の年賀状はいつもの家族写真ではなく、無地の年賀ハガキに大きく太文字でこれまでの厚誼に対する御礼と、先立つ無礼への謝罪の言葉が記された後に、小さな文字でこう綴られていた。

『・・・年末になると、その年に亡くなった著名人の追悼特番が組まれます。これまで見向きもしませんでしたが、昨年末は違いました。殊更シンパシーを覚え見ていました。とくに「この世を去る」という言葉が心に沁みます。私の中で「風と共に去りぬ」という映画の題名と重なるのです。晩秋から初冬の夕刻にかけて吹く木枯らしのイメージ。地平に一筋の茜色の光芒を残し、天上はすでに群青色に沈んでいるなか、地上に吹く風に、枯葉が宙を舞い、何処へともなく飛び去って行きます。この世を去るときの魂も、そんな感じではなかろうかと思うのです』

≪了≫