少年は明らかに冷静さを失っていた。
「かかかかかかかか……」
呂律、焦点、いずれも覚束ない。
「かかか……」
「君、君、少し落ち着きなさい。本官、些か見た目が怖い、とは言われることもあるんだけれど、休日は陰ながら巣立ちのツバクロを応援するような、とっても優しい性格なのよ」
自らを「本官」と、実はこのとき初めて言ってみた。勿論彼は、そのチャレンジを察する余裕はない。
盛夏。長岡市Y村。山峡の警察官駐在所――。
私は、ここに来て半年になる巡査部長である。勤務は住込みの私と、週三日所轄より応援の巡査との二名体制。
事件は滅多に起きない。偶さか朱鷺が田んぼに飛来したとか、じいちゃんが昼から酒ばかり飲んでいるとか、野焼きでうっかり畔を焼いたけど自然鎮火したとか、そういうのばかりである。
話題の熊も出没しない。私の体躯が百九十三センチ、百五十キロ、尚又深い体毛故の、熊なりのテリトリー配慮……であろうか。「山行げば、おめが撃だれる」と上司からも揶揄される。
猛暑の昼下がり、一人勤務の駐在所に、件(くだん)の少年がリュックを背負って現れた。
「かかか」の囀りに変声期の様相有。年の頃は高校……いや、大人っぽく見えるが中学生か。MLBキャップ、ハイブランドの白ポロシャツにデニム、これまたブランドのスニーカー。
地元の子ではなさそうだ。何しろこの時節、村の子なら履物はサンダル一択。
と、この辺の洞察力は「さずがプロ」と自画自賛する。
しかし、顕著に都会の趣ある少年。一体、何の目的で辺境の地へ?
胸中ひとつの不安が過る――。
周囲は切立つ山と深い森。本駐在所脇の獣道から沢伝いに一キロも登れば、そこは鬱蒼たる原生林と落差十五メートルの水量豊富な滝もある。限られた地でしか採掘されない樹脂化石が曩時採掘されていたのか、「琥珀の滝」と呼ばれるその飛泉では、数年前にも若い男女が……まさかこの少年も。
「かか……か」
「さっきから、『かかか』って君。ほら、これでも飲んで。……だけど、まさか死ぬつもりでやって来たとかは……無しよ、君」
余程喉が渇いていたのか、湯呑に注いだ麦茶を少年は一気に飲み干した。
「かかか、かぱ……かっぱ」
「かっぱ? 何? 河童ってかい?」
「はははい」
「河童?」
「ははい」
少年の周章狼狽は、強い肯定と共に伝染した。
「きき君、ままさかか河童を見たとか?」
「ははい」
「ほほほ本当?」
「ほほ本当」
「うううそ?」
「本当! 頼まれごとをされました」
よく見れば愛くるしい私の出で立ちと麦茶の喉越しに、俄然落ち着きを取り戻した少年は、漸く語り始める。
新潟市C区在住、中学二年の少年は自殺志願者ではなく、家出人であった。
中学入学以来クラスの雰囲気に馴染めず、結句不登校となった彼は、以来関係の悪かった父親と些細な口論を由に家を出た。
「だけども君。わざわざ何でこんな山奥に?」
「ヘビトンボ」
「へ?」
琥珀の滝周辺は、現在希少なヘビトンボ生息地である。昆虫好きの少年は家出に乗じ、観察と採集目的込みでやって来たのだ。
顎が鋭く、宛らカゲロウのならず者じみたヘビトンボは、虫に疎い私でも知っていた。如何にも好奇心擽る名のインパクトに反し、さほど人気は高くない。
「河童に、頼まれました!」
そう繰り返す少年からの聴き取りにより、以下、熊田巡査部長(即ち私)が纏めた調書を掻いつまむ――。
十四歳少年、氏名「藤原将介」が昨晩、電車とバスを乗り継ぎ来村。無人農舎で夜を明かし、早暁に入山。暗然たる森でGPSを頼りに飛泉を目指し、ヘビトンボ探索の折――、「それ」が居た。
あからさま千パーセント、それは河童であった。
体色緑。頭頂部に皿を戴き、背に甲羅。手足の指間には水かき、黄色い嘴。肉付き良く、身の丈は少年よりやや低い……そして、少々生臭い。
「河童だっ!」
当初コスプレ好きのキャンパーか? との疑念も抱きつつ思わず叫んだ少年に、苔生す岩に立つそれは「キッ」と険しい表情と共に
「おい、坊主! 俺、お前の言うところの河童じゃねえぜ!」凄んだ。
「坊主。今、俺は便宜的に『坊主』と呼んだが、勿論お前は坊主じゃねえ。お前は所謂坊主頭でもねえし、そう呼ぶに足るほど幼くもねえ」
竦む少年に畳みかける。
「そしてえぇぇ! その洒落たポロシャツはキッズサイズにゃ見えねえし、佐渡汽船も弥彦山ロープウェイも、最早お前は小人料金じゃ到底利用できそうにねえ。従って俺は、初対面たるお前にも相応の礼節をもって臨みたい。俺は河童じゃねえぜ」
「……」
「まずはお互い、名乗ろうじゃねえか。なあ、坊主(仮)?」乱暴か丁寧か分からぬ態で捲し立てる。
「ふ、藤原です」
フルネーム開示は躊躇した少年であったが、河童然たるそれは、満足気に莞爾と笑った。
「そうか、フジワラってのか。俺は川太郎、生国中ノ口、好物はルレクチェだ。こう見えて、人間の友達も多いんだぜ。おかげで、今夏最新モデルのiPhoneも使わせてもらってるよ。防水仕様の上に、ジップロックにも入れてる」
皿脇の髪をかき上げ、川太郎と名乗るそれは明らかに得意げだった。
「さて、重ねるが、俺は河童じゃねえ」言いながら水辺に屈む川太郎。
「厳密には同種だが、俺は『河伯(かはく)』ってんだ。河童は『童(わらし)』、子どものことよ。大人は河伯だ。だから俺のことも、そう呼んでもらいたい。しかし、これがなかなか浸透しねえ。いつまでも河童、河童と呼びやがって。妖怪図鑑ですら久しく混同されてきたもんよ」
皿が乾くのか、河伯川太郎は水を何度も頭に振り掛け、独り語り続けた。
「人間だって、若造だの、青二才だの、餓鬼だのって、いい大人が言われるのは不愉快だろう。俺たちも同じだ。それに河伯ってのは、由緒正しい太古の竜神がルーツよ。ちなみに俺、その末裔」髪をもう一度かき上げた。
「ほら、『トリケラトプス』っているだろ? 三本角の。あれ、『トロサウルス』って恐竜の幼体のことらしいぜ。だから、『河童』も『河伯』の幼体ってことよ。分かる? 包摂関係」
その後も川太郎はひたすら持論を展開、少年はただ一切の感情を殺して聞いたという。
「よーし、フジワラ。街に帰ったら、こいつを広めろ。河童は子ども、大人は河伯だ。あと、その先の滝な。あれ、『琥珀の滝』じゃねえぞ、『河伯の滝』ってんだ。これ、この間ヘビトンボ捕まえに来た親子が落としていったパンフレット、間違ってるだろ? これじゃ、滝じゃなくて誤記だぜ。『ゴキノタキ』ってかぁ! フハハハハ」
ライムは微妙だったが、河童、いや河伯の川太郎は立ち上がり、
「よろしく頼むYO!」言い捨てると少年を熱く抱擁、河底深くに潜って消えた。
――少年の話は以上だ。
直感が、これはどうやら真実だと告げた。証言の具体性も去ることながら、彼の体から迸る生臭さが、常軌を逸していたからだ。
少年を無事に送り返したら、念のため滝の方をパトロールしなければならないだろうか。そう考え、私は些か気が重くなっていた。
「話は分かった。しかし君、両親への連絡とか、然るべき対応はさせてもらうよ。これは本官の職責であるからして」
少年は項垂れながら小さく頷いた。
「で、だ。その、か、河童……河伯か。本官はよく理解できないけども、山中のそういう不審者の類いについても、捜査したほうがいいとは、思っとるよ……うん」
私がそう言い終えるより先に、
「おまわりさん。そのことについては、ご心配なく」とポケットのスマートフォンを取り出し悪戯に笑う藤原少年は、『河伯川太郎 090××××××××』と表示されたディスプレイの受話器ボタンを押下。
「交換させられたっす」
「あっ、えぇ!?」
微かな呼び出し音と共に、「発信中」のそれを私が受け取った刹那、静寂を切り裂き、駐在所裏の山中から聞き慣れない大きな着信音が谺(こだま)した。
「かかかかかかかかかかか♪」
本官は明らかに冷静さを失っていた。
暑い夏の昼下がりのことである。