にいがたショートストーリープロジェクト2026

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笹川流れの人魚 佐々木菜穂子 著

 私は羽越本線の車窓から、あと一時間半ほどで真西に沈む夕日をぼんやりと眺めていた。しばらく乗る機会がなかったが、海に沈む夕日のマジック目当てのカメラマンが、この車両にも数名乗っていた。

 海上にかかる薄い雲と相まって、時空が重なるような錯覚に陥る。加えて冬の荒波で削られた奇岩のシルエットが私の郷愁を誘う。

 今回の旅の目的は、新潟県村上市の「笹川流れ」で蜃気楼を撮影することだ。

 桑川駅に着いた時には、日没まであと一時間となっていた。駅に併設された歩道橋を渡り、私は急いで海岸に向かった。朱色の夕日が水平線に差し掛かったが、湧き始めた雲に隠れてしまった。空は薄紫に変わり、初日の撮影は空振りに終った。

 私は予約していた海岸の民宿の戸を叩いた。恰幅の良い女将さんに迎えられ、さっそく部屋に夕食が運ばれた。今日水揚げされたヒラメの焼き魚に、はらこ(イクラ)飯が並んだ。私は辛口の純米酒を頼むと、女将(おかみ)さんに話しかけた。

「アカムツも獲れてますか」

「ああ、ノドグロだね。手に入ったら刺身にしようか」

「それは有難い。地味な撮影のご褒美になりますよ」

 身の引き締まったヒラメと大盛のはらこで、ご飯も二杯頂いた。急に眠くなり、私は早々に就寝した。

 翌朝、焼き鮭定食を食べ終わると、朝凪(なぎ)の笹川流れを目指した。春分を過ぎて、思ったより寒くはない。遠くに漁の帰りの船や大型船が見える。小さな蜃気楼を逃さぬように、私は望遠カメラのファインダーを水平線に向けた。

 水平線をなぞるように視線を動かしたが、何も現れなかった。ファインダーを離そうとした時だった。岩場から黒いウェットスーツが海に沈み、後には白い泡が広がった。

 この時季に潜水とは密漁か。いや、アワビの季節は三か月以上も先だ。何をしているのか確かめようとしたが、ボンベなしに潜り続けているようで姿が見えない。

 五分後、私はダイバーを探してファインダーを覗く。いた。手にしているのはカメラだろうか。黄色い箱のようにも見えるが、うまく焦点が合わない。

 十時過ぎ、さっきとは違うエリアでダイバーを見つけた。水中メガネを外すと赤い唇が波しぶきにキラキラと輝いた。フィンを着けた黒いウェットスーツの女性が、再び水中にダイブする姿は人魚のようだった。

 蜃気楼の収穫はなかったが、宿に向かう足取りは軽かった。

 民宿の風呂に浸かり、私はダイバーを思い返していた。冷たい海に入るのだから大事な目的があるはずだ。岩陰には仲間もいたのか。妄想を廻らすうちに、体は芯から温まった。

 寝床でスマホの天気図を確認すると、低気圧が近づいていた。「明日がラストだな」

翌朝、女将さんに別れを告げた。

「夕べの寒ブリも、脂がのっていて旨かったです。焼き鮭の切り身だって普通の倍の厚さで、大食いの私は助かりました」

「そうかい、えがった。今日は蜃気楼、撮れるといいな」

 再度海岸を目指したが、午後には厚い雲が広がった。

 予定より早く引き上げ、私はバスで瀬波温泉に向かった。

 ロビーで打ち合わせをしているグループが気になった。紺色のスーツ姿だが、あのダイバーに違いない。カメラで覗いていたと言えばストーカーと疑われる。声かけの言葉を思案していると、女性は立ち上がり入口に向かって歩いて来た。

 私は咄嗟に背負っていたリュックを肩から降ろし、名刺を抜き取った。

「あの、私は笹川流れに蜃気楼撮影に来た者です。海岸でお見かけしたのですが、潜水技術に驚きました」

 趣味なども書き込んだ手作り名刺に助けられた。

「観光以外で笹川流れに来る方もいらっしゃるんですね」

 彼女はそう答えて微笑んだ。

「今も越後大学の先生方に、アワビの生息状況を報告していたのです。定期的に潜って大きさなども測定しています。天然アワビの漁獲量は五十年前の一割まで減っています。海は私たちの命だよと、潜水を教えてくれた祖母が言っていたのですが」

「そんなに減りましたか。子どもの頃、漁師だった祖父が、アワビも腹いっぱい食べさせてくれました。その時、海で逆さの船も見たのです。定年後は富山湾以外の蜃気楼撮影で、あちこち巡っておりまして、村上は五十年ぶりです」

 彼女は頷くと、市章のついた名刺を差し出した。「観光課 五十嵐(いがらし)優衣(ゆい)」

 素潜りの特技で、笹川流れの人魚は海を守っていたのだ。

 その夜、私は子どもみたいに息を止めて、温泉に顔を沈めてみた。二十秒も潜っていられなかったが、温まった顔の口角は上がっていた。

 風呂から戻ると、間もなく部屋に膳が運ばれた。

「おお、ノドグロの刺し身だ。けっこう獲れるのかい」

「お客様は幸運です。毎日手に入る訳ではないのですよ」

 私の心は小躍りしていた。配膳係に追加注文する。

「純米酒を一合、できれば枡でお願いします」

 私は枡酒が届くのを待ちながら、刺し身を一切れ頂いた。こんな時間が人生のご褒美というものだろうか、と悦にひたっていると、尻を傾けた弾みでリモコンを押したようだ。テレビが点いた。

「あっ、五十嵐さんだ」

 地元のニュースらしかった。インタビューに答える姿は、貫禄さえ感じられた。

『アワビの陸上養殖を断念した事例も各地で聞かれますが、減ったことを嘆くだけでは、次世代への責任が果たせないと思うのです。今回、村上出身のスタートアップ企業と連携し、海水の温度管理をAⅠで行うシステムを導入して、陸での養殖を試みます』

 私は、いつの間にか涙を流していた。これからの課題の山さえ、この女性は笑顔で乗り切るのだろうと思われた。

 ちょうど枡酒が届き、私はテレビの五十嵐さんに枡を傾けて言った。

「養殖の成功を祈って、乾杯」