にいがたショートストーリープロジェクト2026

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タロウを呼ぶ声 日野和彦 著

 もう限界だった。全身が冷え切って感覚がない。岩陰に隠れて吹雪が体中に吹き付けるのを、ただひたすら我慢するしかなかった。
 意識が薄れるとともに、夢を見始めた。目の前に懐かしい光景が現れ、いつのまにか幼い頃の自分に戻っていた。吹雪ではなく、涼風が頬をなでる。生まれ故郷の野山が、目の前に広がっていた。北国の澄んだ空気が肺を満たしてくれる。広大な風景に全身がとろけていくようだった。
 先週死んだ登山仲間の山崎研吾の弔いのつもりだった。彼に誘われるようにして冬山に登り、無謀で哀れな老人として新聞に載る。この故郷の夢は、その前のご褒美なのかもしれない。
 区画整理で取り壊された実家がある。幼なじみでもある研吾の家も、初恋の女の子の家もあった。その周りを何ヘクタールもの田んぼが囲んでいる。信濃川の土手が城壁のように続き、その横で私たちの古ぼけた藁葺き屋根の民家が寄り添うようにして建っていた。
 ふと目の前をちょこちょこ歩き回るものがいることに気がついた。目を凝らしてよく見ると、私が八歳の頃飼っていたボクサーの子犬に似ている。
 思わず手を伸ばして抱き上げる。子犬は私の腕の中でおびえて丸くなった。

 子犬を自分の顔の高さまで持ち上げて、その両目を覗き込んだ。微妙な体の震えと温もりが伝わってくる。
「よしよし、元気を出せ!」
 飼っていた子犬は体が弱かった。デパートの屋上で親にねだって買ってもらった直後から、食べたものを吐いてばかりいた。親は店に相談に行こうと言ったが、私は反対した。きっとほかの子犬と取替えられてしまう。
「ぼくこの子犬がいい。見てよこの目、とってもかわいいもん」
 そういって泣きついた。手放す気はなかった。一度その目を見てしまったら、見捨てることなどできなかった。
 その子犬はタロウと名づけられた。タロウは病気がちながらも少しずつ成長していった。
 最初の冬が来たときに突然ひどく体調を崩した。近所の獣医さんに診てもらったが、よくなる気配はまったくなかった。
「手間ばかりかかる犬ね」
 母親はいつもそうこぼしていた。
 ちょうどその頃に断耳の時期が来た。ボクサーは生後一週間で尻尾を切り、四、五ヶ月で耳を切って立たせる習慣がある。
 私は気乗りしなかったが、結局両親は見栄えを選んだ。
 比較的元気のいい日に動物病院で処置してもらい、断耳は無事終わった。
 しかしタロウは相変わらず弱々しかった。包帯に覆われた頭がなお痛々しい。特有の寂しげな目でこちらを見つめる。私はそんなタロウがかわいくてしかたがなかった。
 断耳から一週間ほど経った頃、喜びと悲しみが一緒になってやってきた。
 その日は前日までの陽気がうそのようで、朝には二メートルもの雪が積もっていた。タロウにとっては初めて経験する大雪だった。
 最初は足を恐る恐る雪の上におろしていたが、慣れてくるにしたがって雪に埋もれるようにしてはしゃぎ始めた。私の足元を、何回も何回も駆け回る。私はうれしくてうれしくて、何時間も彼を追いかけ回した。
 しかし、それが元気に動き回るタロウの姿を見た最後だった。次の日には体力が極端に低下し、足を引きずり始めた。それでも雪の上で遊びたいらしく、しきりに外に出たがった。仕方なく外に連れ出すと、彼は足を引きずりながら、何かを追い求めるように、懸命に前に進んでいた。
 次の日学校から帰ると、玄関口で線香の匂いがした。
 タロウは、奥の部屋で短い一生を終えて横たわっていた。断耳の包帯をしたまま、仏壇の前の小さな棺おけの中で白い毛布にくるまれていた。
 私にはタロウを抱き上げることなどできなかった。毛布と包帯の隙間から見えている彼の顔をなでてやるのが精一杯だった。
 冷たくて、まるで古びたぬいぐるみのようだった。
 
 急に寒気がして我にかえった。目に涙があふれている。
 吹雪は相変わらずだが、なぜか明るくて前が見える。
 もう朝になったのだろうか?
 目をぎゅっとつぶってから開いてみたが、景色はぼんやりしてはっきりしない。視界が狭くなっている妙な感覚があった。
 とりあえず深い雪の中を前に進む。なんだか片足が引き攣ってうまく歩けない。雪の向こうの人影を目指して少しずつ歩いた。
 人影に近づいて見上げると、そこには幼い頃の研吾が立っていた。
「よしよし。元気を出せ。雪の中を走り回ってみろよ。楽しいぞ。こら、そっちじゃないよ。タロウなにしてるんだ。それじゃあ、田んぼに落っこちまう」
 私は、訳もわからず一生懸命歩いた。たびたび声をかけられて歩く方向を修正させられながら、一心不乱に歩いていった。
「そらそら、休んじゃだめだ。止まったら体が冷えちまう。歩け、歩け。がんばれ、がんばれ」
 進めども進めども、前には雪しか見えなかった。体がほとんど雪の中に埋まり、雲に覆われた空しか見えない。必死で身振り手振りをまじえながら励ましてくれる研吾の上半身がかろうじて見えた。
 足の痺れが深刻になってきた。もうすぐ完全に動かなくなるだろう。
「タロウ、どうした。もう一息だ。がんばれ!」
 あの日のタロウもこんな気分だったのだろうか。あの死ぬ前々日。はじめてみる雪の上ではしゃいでいたように見えたのは、実は寒さに震えながらもがいていたのかもしれない。
「しっかりしろ。おまえなにやってんだよ。こんなところで死んじまう気か?」研吾の顔はとても真剣だった。
 私は、這うように歩くしかなかった。もう限界だった。
「よしよし、よくやったぞ。ほんとうによくやった」
 見上げると年配の男が立っていた。最初は目がかすんでよく見えなかった。その男が晩年の研吾だと気づくのに数秒かかった。
「おまえ、なかなかやるよ。まだまだ捨てたもんじゃない」
 私は、歩き続けて温まった身体が、冷たい雪でゆっくりと冷えていくのを感じた。

 そのとき、車の排気ガスのかすかな匂いがした。私はその場でもがいた。もがきながら必死で半身を起こし、重たい瞼を引き上げた。
 視界が広くなっていた。目の前に雪に覆われた道路らしきものが見える。辺り一面が、朝陽に染まって朱色に輝いている。
 遠くからエンジンのかすかな音が聞こえてくる。
 私は再び前のめりに倒れ、うつぶせに横たわったまま、首を回して後ろを振り返った。私のスニーカーの跡が曲がりくねった獣道の向こうに延々と続いている。
 ここまで歩いてきたのだ。眠ってなどいなかった。
 研吾とタロウがもう少し生きろと言ってくれている。
 私にはそう思えた。
 涙で目がかすんだ。
 再び意識が遠のいていったが、車のエンジン音が、心地よく私に近づいてきた。

(了)