にいがたショートストーリープロジェクト2025

にいがたショートストーリープロジェクトに投稿された作品を掲載しています

雪国の一粒 瑪瑙 著

 新潟市中央区にある古い町並みが残るエリア、その一角に「一粒庵」という小さな酒蔵がある。看板商品は純米酒「雪国の一粒」。この酒蔵は県内外から多くのファンを集めているが、経営状況は決して安泰ではなかった。

 一粒庵の経営者、佐藤篤人(さとう あつと)は四十代半ば。先代である父から酒蔵を引き継いで十年になるが、販売戦略の立て直しに苦心していた。かつては地元の米と湧き水で作った伝統的な日本酒が支持されていたが、近年の酒離れと市場の変化により、売上は年々下降線をたどっていた。

「父さんが残したこの酒蔵を守るには、何か大きな変革が必要だ……」

 篤人は一人つぶやき、机に広げた経営計画書を見つめた。数字の羅列が目に入るたびに、プレッシャーで胃が締め付けられるようだった。

 そんなある日、東京の大手食品会社「太陽フード」から一本の電話が入った。担当者の口調は親しみやすいものだったが、内容は簡単ではなかった。

「佐藤さん、一粒庵のお酒、都内で少しずつ人気が出ていますね。特に『雪国の一粒』は評価が高い。ただ、販売量が少ないのが惜しい。うちと組んで全国展開しませんか?」

 その提案は魅力的ではあった。太陽フードは全国に強力な流通網を持つ業界の大手であり、彼らと提携すれば、一粒庵の酒が全国の居酒屋やスーパーに並ぶ可能性があった。しかし、その代償として、製造工程の効率化や、伝統的な酒造りの一部を妥協する必要がある。

「父さんが守った味を変えるのか……?」

 篤人は悩んだ。伝統を守るべきか、それとも新しい市場に挑むべきか。どちらを選んでも、何かを失う覚悟が必要だった。

 

 数日後、篤人は同業者の集まる新潟市内の展示会に足を運んだ。そこで彼は、全国展開に成功した他の酒蔵経営者の話を聞く機会を得た。

「伝統を守ることは大切だ。でも、それだけじゃ続かない。今の時代、ブランド価値を高める工夫が必要なんだよ」

 篤人はその言葉に胸を突かれた。一粒庵の日本酒は確かに地元では評価されているが、それは「古き良きもの」としての価値に過ぎないのではないか。

 その夜、篤人は家に戻ると、亡き父が残した蔵の帳簿を引っ張り出した。そこには、父がどれほど苦労して酒蔵を維持してきたかが記されていた。

「親父も悩んでいたんだな……」

 その瞬間、篤人は一つの決断を下した。

 

 翌月、一粒庵は太陽フードとの提携を発表した。同時に、販売先を全国に広げるため、地元の酒米農家と新たな契約を結び、原材料の安定供給を確保した。篤人は「雪国の一粒」をブランドとして押し出しつつも、酒造りの核心部分だけは譲らない方針を貫いた。

「全国展開はいい。ただし、一粒庵の酒は地元の米と水で作る。それを条件にしてくれ」

 太陽フードもその条件を受け入れた。彼らにとっても、地方色を強調する酒の方がマーケティングしやすいという判断だったのだ。

 数ヶ月後、都内の高級百貨店やレストランで「雪国の一粒」が取り扱われるようになると、評判はすぐに広がった。「地元新潟の味をそのまま全国へ」というストーリーが消費者の心を捉えたのだ。

 さらに篤人は、SNSを活用したマーケティングも始めた。酒造りの過程を映像で公開し、職人たちの手作業の様子や地元の自然の美しさを発信した。その結果、若い層からも支持を集めるようになった。

 

 そんなある日、一粒庵に一人の女性が訪れた。

「あなたが佐藤さんですか? 東京で『雪国の一粒』を飲んで感動して、新潟まで来ちゃいました!」

 女性は満面の笑みを浮かべている。聞けば、都内の百貨店で「雪国の一粒」を手に取り、飲んだ瞬間にその味の深さに心を奪われたという。

「こうやって直接お客様の声を聞けるのは、やっぱり嬉しいですね。」

 篤人はその場でその女性と乾杯し、一粒庵の酒を改めて味わった。その時、酒蔵の奥から父の遺影が見守っているような気がした。

「親父、これでよかったんだよな」

 篤人はそうつぶやきながら、今日も蔵に足を運び、新しい挑戦に向けて動き出すのだった。